昭和47年09月25日 朝の御理解
御理解 第100節
「めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ。」
金光大神の教えられる事は、全部人間氏子が、真実幸せになっていく道。しかもそれが子孫に続き、しかも繁盛に広がっていく道。そういう道を教えられておるのであります。例えば人間が真実幸福を感じると言うか、幸せになっていくという事には、只自分の心だけが安らいでおれば、それでよいという事ではない。金光様の信心、金光大神の道と言うのは、そういう心が、和らぎ、しかも賀びに充ち溢れる。そういう心の状態には、そういう状態にならせて頂く道を教えて下さるのである。
しかもその道には、子孫繁盛家繁盛のおかげというのが、つきものである。というのが金光教の信心です。おかげを受けるとか、御利益を受けるという事だけではない。その根本になるものは、金光大神が教えられる事。それは煎じ詰めますと、和らぎ賀ぶ心に、人間がならせて頂く精進をするという事に有るのです。それにおかげが、それこそ、祝いめでたの若松様よと言う程しの、おかげが約束されておる訳です。
宗教が段々洗練されてくると言うか、大きくなってくると言うか、そうすると段々この御利益という事、おかげという事を非常に軽んずる様になります。いや軽んずる様になるどこじゃなくて、それは何か、如何にも程度の低いもののように言うように段々なってきます。そうなったら、宗教の生きた値打ちはないですね。人間と密接な関係を作っていくという事は、そういうおかげが密接になって来るから、有難いのであり、尊いのである。いや私は、金はいらん。私は、そげなよか着物はいらん。
私はそげなよか食べものは食べる事はいらんと言うのは、何処まで、やせ我慢である。けれども、誰でも頂きたいのが、私は本音じゃなかろうかと思うです。天地の親神様が、それこそ、誰に見せとて、紅金付けたという様な、歌の文句じゃないですけれども。誰に与えようと思うて、このような素晴らしいものを作っておられるかという事です。食べものだって、衣類だって、例えば衣食住の全てが、本当に、立派なものが出来ておるという事は、牛やら馬に着せたり、牛やら馬に住まわせたりする為に。
そういうものが恵まれておるのじゃないです。そういう御恩恵というのは、やはり万物の霊長と言われる、人間氏子に与えたいとこういう事なんです。それを私共は自分の心次第で頂いて行こうというのである。自分の我情とか我欲でです、それを満たして行こうというのではなくて、自分の心一つに集まってくる程しのおかげを受けていきたい。又受けられる道を、金光大神は教えて下さった。だから贅沢はいけません。天地の親神様が作って下さったんだからと言うてです。
毎日、百味の御食と言う様な、食生活なら食生活の上にでもです、自分に力もないのに、あちらから借ったり、こちらから借金して、それを食べておるような事ではいけんのですよね。例えて言うと。それがね頼まんでも、願わんでも頂ける程しの道が、金光大神の道なんです。ですから私共はどうでも、その贅沢ではない、返って難儀の元を作る様な事ではない、自分相応のおかげを頂かせてもろうて、しかも相応のおかげがです。もうこれ以上のものはなかろうと思われる程しのおかげを受けていく事。
そういう道を教えておられる。金光大神は、子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃと。だから、そういう道を私共が体得しなければならんのでございます。立教神伝是は天地の親神様が、教祖金光大神にお頼みになったお言葉です。そのお言葉の最後のところに「この方のように実意丁寧神信心しよる氏子がある。世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次助けてやってくれ、神も助かり氏子も立ち行く。
氏子あっての神、神あっての氏子、繁盛致し、末々親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く」と教えておられます。是が天地の親神様の願いである。総人類の上にかけられる願いである。その為にはです。この方のように、実意丁寧神信心しておると仰る。教祖の神様の、後にも先にも、随分と沢山な、宗教家も輩出したけれども。沢山な人間の中にです。天地の親神様が、日本の天照大神様に、あの氏子を私にくれいと言うて、神頼みになっておられるくらい。
日本の天照大神様がね、いや、あの氏子だけはやれませんとおっしゃる程しの、これは神語りですね。日本の神様と、世界を支配なさるところの、地球上だけではありません。それこそ、この宇宙全体をお支配になるところの、天地金乃神様がです。日本の天照大神様にお頼みになっておられる。これは、分かりやすく、物語風になっております。言うなら古事記なんかの様な場合と同じですね。天地の親神様が、天照大神様に、あの氏子を私にくれんか、と言ってる。いや、あれだけはやられません。
そんなにたってのお頼みならば、あれの息子がおりますから、息子をあげましょうと仰っておられる。それではいけん。どうでもあの氏子が欲しいと。そんなら仕方がないから差し上げましょうという様な、渋々承諾なさっておられるという様なところの場面がございますですね。兎に角今迄見てきた人間氏子の中に、このような氏子は、又と見た事がないち言う。いわゆる日本の小さい神様から、天地の中にそれを小さく言うなら地球上の上に、支配下さると言うか。
人間氏子を取次助けて下さる事の為の天地の親神様が、自分の心を吐露して一切を打ち明けて頼んでおられるのが、この立教神伝なんです。それこそ情理を尽くしての神頼みになっておられます。それを教祖金光大神は、それこそ理屈も何もない。承知仕りましたとして、お受けになられ。その日を境に立教神伝にありますように、此幣切堺にです。永年のお百姓をお止めになり、家族の者に任せて、御自身が取次の働きをなさる事になって、私共は、その取次の働きを受けて助かる事になった訳でございますが。
その天地の親神様が、お前のように実意丁寧神信心をしておる氏子と、こう仰っておられる。世間に沢山おる難儀な氏子を取次助けてやってくれと。そこから神も立ち行く氏子も、いわゆる神と氏子とが、あいよかけよで親の事は子が頼み、子の事は親が頼みというようにです。末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行くというおかげこそがです。実を言うたらめでためでたの若松様よと言う様なおかげなのです。
只自分が儲け出した、自分がどげな贅沢でも出来るようになったという事は、これは如何にも目出度いようですけれどもです。それには悲しい悲しい結果がもたらされてくる事が、ハッキリ分かっているんです。栄枯盛衰は世の習いと言うでしょうが、その通りでしょうが。如何に立派な御新築が出来ました。よか嫁さんもらいなさった。目出度いの有難いのと言うておるけれども。そういう有難いというのであってはです。もう尽きなければならない運命が、そこにはある訳です。
いわゆる長者三代なしと言う、例えの通りなのです。ただ金光大神の道は、そうではない。親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と、いよいよ子孫繁盛していくところの土台というものを頂くから、祝い目出度の若松様よという事になるのです。そういう尊いおかげを頂かせて頂くという道に、お互い御神縁を頂いたのでございますから、実意丁寧神信心しておる氏子とおっしゃる。教祖金光大神の、実意丁寧神信心のあられ方というものをです。真似方でもよいから、この全部という事は出来ますまい。
せめてこの事だけはと言う様な、一部の所でもよいから、それを神習わせて頂く、それを真似させて頂く。それを自分のものにしていくという信心が求められる訳であります。そこからです、言うなら和賀心も自ずと育ってくる。和らいだ心も賀びの心も、所謂祝い目出度い毎日が、お目出とう御座いますと言いたい様な心が湧いてくる。明けましてお目出とう御座いますというのは、決して年が明けてじゃない。
日が暮れて夜が明ける時に、今日も明けましてお目出とうございますと言えれる信心を頂くという事が、金光様の信心の、一番私は有難い素晴らしい事だと思う。そこで御信心を頂いておるから、毎日お参りをしよるから、そういうおかげは受けられるかと言うと、決してそうではない。そういうところから、段々御神縁が深うなっていくのですけれども。昨夜、夜の御祈念を、博道先生が担当しておりました。御祈念が終わらせて頂いて、お話を皆さんに聞いて頂いております。
御祈念中にしみじみ思いました。こうやって親先生のお取次を頂いて、日々このお広前で、信心修行に励ませて頂いておるが、果してどれだけの信心を頂いておるだろうかという事であった。そしてそこん所を自問自答して見た所が、何も頂いていない。只有難い勿体ないという、このお広前の雰囲気の中にです。只住まわせて頂いておるというだけではないかと結論が出た。これは、いよいよ相済まん事だなぁと。
只信心の雰囲気の中に有難い勿体ないという雰囲気の中に、お生かしのおかげを頂き、御用させて頂きそして如何にも、修行しておりますと言う様な風にしておると言う事は、是は神様に対して相済まん事であったと、気が付いたという意味の話をしておりました。それでお話を終らせて頂いて私が一口皆さんに聞いて頂いたんですけれども。昨日は久留米の教会の開教記念式が御座いました。若先生が出る様になってましたけれども、青年会の事で出られませんでしたから、久し振りで私はおかげを頂きました。
おかげを頂きましたら、なるほど私が行かなければ出来ない事が、幾つもございましてね。本当に、私はおかげを頂かなければならんと思いました。お祭りが済みましたら、偉い先生なんです。全教でも偉い先生です。久留米の出社の方が、大坪先生三十分ばかり時間を下さいとこう言われる。何でしょうかと言うたらちょっとお話聞いて頂きたい事がありますがらとこう言う。それでいいですよと言うてから、裏の応接室に案内されましたから、参りました。
そしたらどういう事かと思いましたら、ここでは年々修行生の方達が育っておられる。そこでご無理なご相談ですけれど、それこそ天地金乃神様が、金光大神に神頼みじゃないけれどもね。お宅の修行生を一人二人下さらんかという事です。金光教の教会にはこれは、教祖金光大神様がご養子であるからでしょうか。兎に角娘さんだけという教会が多いんです。息子がいないという教会が。
だからですね、うちには養子にやるごたる修行生がおるじゃろうか。おりなさいますよ、二十六才、二十八才、三十才の修行生の方が、そのどれでもよいから、どれでもよかち言うてからあんた。いやお宅で修行してあるとならばね。私が頼まれておるち。一つはあなたとこの御親戚の古川先生の所の御親戚の教会。それから一つは大分の何々という教会。だから合楽で修行した人ならば、あれこれとは言わん。どの人でもよいからという、それこそ神頼みを受けとるという訳なんです。
それで承るだけ承って参りましたんですけれどもね。その方が言われるのに大分の先生ですから、お宅には日田に布教所を作られたという様なお話ですがという事です。そげな事はありませんよ。だから実を言うたら北九州あたりのごと、ここには出しちゃ出来んあそこには出すなというのじゃなくて、大分では合楽の修行生の方達が出て頂くなら、大歓迎でございますよと、こういう訳です。
けれどもそれ前にその教務所へ一遍、私を通してそして言うて下されば、何処へ出されてもいいですから。それは日田の方に支部がありますから、その事が間違いに間違うて、そんな風にお耳に入ったんでしょうと言うて。はぁそうでしょうという事でございました。まあ他に色々お話が御座いましたけれども、その前にです。これは若先生が行っとっては、そういう切っ掛けを頂く事も出来ない。そういう切っ掛けを頂く為の今日だったなとまで思いましたんですよ。そういうおかげを頂いておる。
私は初めて福岡の吉木先生の開教でしたが、そのお話を聞かせて頂いてから、昨夜の博道先生の話と共に併せてから、その事を聞いて頂いたんです。というのはね私がまぁだ、いわゆる、吉木先生のお言葉です、学院を出て間もなくの事でございました。私の父三代吉木辰次郎が、お取次の御用に専念しておる時でした。金光教の信心にこういう矛盾があっていいのか。こういう事があっていいのかと。
それを平気でしておれるような事であったら、私はもう金光教の信心止めますと言うて、父に申しましたら、父が暫く御祈念をさせて頂いて申しました事は、お前は信心を、如何にも頂いておるような事を言いよるけれども。お前はどういう信心を頂いておるのかと言われた。信心を止めますと言うが、止めるだけの信心を頂いておるのかと言われた。もう愕然としましてね。次の言葉が出ませんでしたというお話でした。皆さんどうでしょうか。毎日十年も二十年も、お日参りをしよります。
毎日朝参りをしよります。それこそ博道先生じゃないけれどもです。果してこういう信心の雰囲気の中に、おかげを受けておるという事実は事実なんです。けれども、教祖金光大神の信心の何処をです、一部でも頂いておるかという事を思わせて頂く時にです。それこそ、吉木先生じゃないけれども、愕然とする程に、お互いは感じなければいけません。昨日、博道先生が、そのお話の中に言うておりました。
福岡の文男先生が、お信心をさせて頂くようになって、これだけは絶対「腹立てば心の鏡のくもる事」と教えられるがもう腹だけは、金輪際一生立てませんという、修行をさせて頂いたが、大変な難しい事でしたけれども。此の頃ではおかげを頂いて、腹が立たんようになったと、文男先生は言うておられるがです。そう言う様な教祖様の一つの御教えだけでもです、頂いて初めて、信心を頂いたという事になるのです。
博道先生じゃないけれども、只雰囲気の中にはおる、有難いというお広前に、座らせては頂いてはおるけれども。果して信心を頂いておるという、頂いておる所が、何処にあるかと思う時に、成程、愕然とするはずだと思うのです。それではね、今日の御理解の、めでためでたの若松様よという事になってこないです。お取次を頂いてお願いをする。どうぞどうぞと言うから、おかげは頂くに致しましてもです。
信心を頂かずしてです。教祖様の信心を頂かずして、教祖様の御あられ方というものを、一部でもです頂かせて頂いて、初めてそこから本当のおかげの交流というのがあるのです。皆さん博道先生じゃなかばってん、自問自答してみてごらんなさい。私はこれだけは頂いておるようであるけれども、また失敗しましたという事になるでしょう。私は昨日遅う、ここへお礼に出て参りました。
出て参りましてから、ある方が本当に難儀な事です。まぁ分かり易く言うなら、もう腹は立てんという程しの、それが一番腹が立って腹が立ってたまらんという。これは病気じゃなかろうかと思う位なんです。自分でも苦しゅうしてたまらんそれが。それでねまた失敗をして、今教会をちょっと離れております。その事を私は普通で言うならばですね、構わんという位に感じるんです。本当言うたら。どがしこ言うて聞かせりゃ分かるかという感じです。けれどもこれは、私の信心ですけれども。
これはもう絶対、例えばお天道様と風の神様が、旅人の外套を脱がせる事に、早う脱がせぐっちょをしなさった訳ですね言うなら。そこで風の神がものすごい風を吹きまくった訳です。ところがその旅人はいよいよ益々、外套をしっかりこうやってしがみついたと、こう言うのです。そこでお天道様が暖かい光を、こうサンサンと送られた。ところがその旅人が、誰も脱げとも言わんのに、外套を脱いだと。言うて聞かせると言うことも素晴らしい事なんだけれども。
怒ってでも分からせるという事も有難いのですけれどもです。怒らんでも言うて聞かせんでもです。それこそサンサンと暖かいものをそこに送ってやるという事によって、おかげを頂くと思いましたからその事を、昨夜思わせて頂いとりました。そしたらその前に私は、ちょっと手洗いに行きましたら、どなたか洗面所の中に、菊の花を明日取り替えようと思うておられるのでしょう。固く紙で何本かの菊の花を巻いてね、手洗いの水の中につけてございました。
ところがあれは自然に漏りますもんですから、私はまた水を少しつぎ足して、お広前に出て来たんです。その情景を頂くんです。成程もう知らん。もうあの人は構わんぞと言うごとあるけれどもです。そういう修行もね、神がしっかりこうやって、抱いてるという意味の事を頂くんです。私はそれを聞いてから涙がこぼれました。天地の親神様という方は、そういう方なんだ。もうあげな奴は構わんぞと言うのじゃなくてです。お気付けでも頂いてというのじゃなくてです。
神様がねこうやって、包み込んでおられるのです。問題は、そうして包まれておる時に、お恵みの水がなかったら、包まれたままに、枯れなければならんのだ。神様の思いの中に包まれながら、そのまま枯れ果ててしまわなきゃならんのだ。そこで私の役目というのがです。水を絶えずそこに差しておけ。今花瓶に移す事は出来なくても、この水を送ってやる事が、今私が願った事がその事だという意味の事を頂いたんです。
成程是はこういう祈りこういう願いというものを、育てていくという事が金光様のご信心だという風にも、昨日は頂かせて貰いましたという程しに腹を立てないと言う事でもです、実を言うたら難しい事なんですけれどもです。是だけでも自分のものにさせて頂こうというのが、昨日の博道先生のお話を借りると、文男先生はそこが出来ておられるが、果たしてそういう風に徹底して出来ておるという事が果して自分にあるか無い。
そんなら、金光大神の信心を頂いておると言う事は、言えない自分だと言う事に気が付いたと言うのです。私は是は金光教の沢山な信者がです。殆どそれじゃなかろうかと。成程お取次を頂いておかげは頂いておる。何日も何十年もお日参りはしよるばってん、教祖様の御教えが一言でも、徹底して自分のものになっておると言う事がないとするならばです。それは目出度、目出度の若松様よと言った様なおかげには繋がらない。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えると仰るのは、そういう道を教えて下さる。
だからその道を体得し、その道を歩かずし、おかげの頂けるはずはないでしょう。お参りをし、先生にお取次を頂いてお願いをし、おかげを頂いたがです。それは百年続いたかっ、それは本当のおかげには繋がらないという事。金光様の信心そうにゃしござったけれども、お父さんな総代迄してござったけれども。子孫の代に信心の毛もないという様な人が沢山あるという事はです。如何にも金光大神嘘を言うて御座るごとある。けれども決して嘘じゃない。
金光大神の信心はしよったかも知れんけれども、頂いてはいないという事なんです。成程これでは、本当の意味に於てのおかげは頂けまいと思うのです。立教神伝の最後の所に、この方のように実意丁寧神信心しておる氏子が、教祖金光大神を指されておるのです。だから、お前の生き方を取次ぎ教えてやってくれという事なんです。ですから金光大神の実意丁寧神信心というのはです。
それがそうにゃ出来なくても一部でも、教えられてそれを頂いて守って道を歩いて行く所の信心修行が出来なかったら、天地金乃神様の願いも成就しない事になるのです。氏子繁盛致し、末々、親にかかり、子にかかり、あいよかけよで立ち行くという事はです。その教えをもって、その事をもって、天地金乃神様と、あいよかけよの働き合いという繋がりが出来るのです。親にかかり子にかかりという事はそういう事。親の心を対して、その親の心を守るという事だけでです。
氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからという。親の思いに、少し添わせて頂く事になるとです。親は今度は、子供任せになろうと務めなさる訳です。親と子とが、拝み合うていけれる道。いつも天地の御恩恵をです、そういう教えを行じさせて頂くというか、守らせて頂くと言うか。福岡の吉木先生じゃないですけれども。信心止めますと言うて、止めるだけの信心を、お前が頂いておるのかと。理屈は分かってきた。学院卒業したから、金光様の信心の何たるかは分かって来た。
けれども頂いておるかと言われたら、愕然とする程しに頂いていない事に気が付いたというのです。本気で一言でもよい実意丁寧神信心の、その一部にでも、触れさせて頂いて、如何に実意丁寧神信心が素晴らしい事であるかという事を、体験させて頂くという事が、そのまま取りもなさず、御理解百節に繋がる事だと思うのです。私はそげな下作か、おかげてんなんてんな貰わん、という様な人が果して事実あるだろうか、いやあってもそれは、痩せ我慢だと思うです。痛ければ擦ってももらいたい。
痒ければ掻いても貰いたい。食べるもんがないなら食べたい飲みたい。是は人間誰しもが持っておる願いではないかと、こう思うのです。それを我情して我欲をして自分のものに手に入れなければならんという行き方からです。そういうものが我情我欲を言わんでもです。それこそ降ってくるか湧いてくるかのように、おかげの頂けれる道がある。しかもそれは子にも孫にも伝わっていく程しの、おかげの頂けれる道があるですから、その道を体得せずして、そのおかげを頂かれるとは思われませんですね。
どうぞ。